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木育 その二

執筆者の写真: GIGI_mtk
GIGI_mtk
9月6日
読了時間: 5分

そこに木が在る。


以前、「木育」について一度書いた。


木育という言葉は北海道で生まれたもので、その中に、

「木とふれあい、木に学び、木と生きる」

という言葉がある。


改めて読んでみると、最後の「木と生きる」というところが、妙に気になった。


私自身、昔から木が好きだったわけではない。

建築を学ぶまでは、木についてほとんど考えたことがなかった。

地元には、山から吹き下ろす風を抑えるためにつくられた古い防風林があった。

小学校の授業で、それが暮らしや農業を守ってきたと習った記憶がある。

でも当時、それを「木」として意識していたわけではない。


大学へ進んでも、大学院へ進んでも、興味があったのはもっぱら建築のデザインだった。

木造だから好きだとか、木という素材が面白いとか、そんなことはあまり考えていなかったと思う。


自分で設計事務所を始め、住宅を設計するようになって、少しずつ木を使う場面が増えた。

そこで初めて、マテリアルとしての「木」に触れるようになった。


最初の頃は、正直、厄介な素材だと思っていた。

曲がる。 

反る。 

割れる。 

一律ではない。 

節がある。 

色にもムラがある。

工業製品のようにはいかない。


でも、いつの頃からだろう。

その個体差が「味」だと思うようになった。

なぜそう思うようになったのかは、よく覚えていない。


その頃の私は、施主には、

「木は自然素材だから、いいですよ」

などと言っていた。

でも、何がそんなにいいのか、自分でもよく分かっていなかった。


なんでいいんだろう。


それをもっと知りたい、感じてみたいと思うようになったことも、

東京から長野へ移った理由のひとつだったと思う。

同じ頃から、構造としての木にも興味を持ち始めた。


考えてみれば、

木という素材は不自由だ。

長さにも限界がある。 

強さにも個体差がある。 

水分を含めば動く。

それなのに、日本の建築の歴史を遡れば、いたるところに木がある。

京都や奈良の神社仏閣を見ても、古い民家を見ても、そこには木がある。

そして私が惹かれるのは、「木を使っているように見せている」ことではない。

木そのものが、その建築を構成しているという事実だ。

柱が木なのは、木らしく見せるためではない。

その柱が建物を支えているから、木なのである。

梁もそうだ。木を組み、建築が成り立っている。

その事実が、そのまま表れている。


そしてその次に、

目に入ってくる木目や色がある。

触れたときの感触がある。

木の香りがある。

節だってある。


私は、節は人のほくろや、あざや、しみと似ていると思っている。

生きていれば、いろいろなものが現れてくる。

人が一人ひとり違うように、木も一本一本違う。

素直な木もあれば、じゃじゃ馬な木もある。


でも、それが面白いんじゃないか。


昔の大工は、そんな木の癖を「読んだ」。

曲がりや木目、その木が持っている性質を見ながら、どこにどう使うかを考えた。

違いを消してから使うのではなく、違いを見ながら使った。


一方、今の木材には、均一さや性能が求められる。

強度を測り、乾燥させ、集成し、プレカットする。

木が、少しずつ「木」から「材」になっていくように感じることがある。

でも、それを否定するつもりはない。


私自身、集成材もプレカットも普通に使っている。

今の建築には、それが必要だからだ。


地震がある。 

台風が来る。 

火災もある。


人が戦うとき、鎧や甲冑を身に纏うように、

木も現代の建築の中で使われ続けるために、

さまざまなものを身につけてきたのだと思う。


それなら、それでいい。

ただ、だからこそ、どこかには木が木らしくある場所を残したい。


私は木目調のシートを見ていると、ときどき思う。


木に見せたいのなら、なぜ木を使わないのだろう。

木ではないのなら、木に見せなくてもいいのではないか。

コンクリートならコンクリートらしく。

鉄なら鉄らしく。

石なら石らしく。

木なら、木らしく。

その方が、私には素直に見える。


そして、ここで「木育」に戻ってくる。

もしかすると私が考えている木育は、

木について何かを教えることより、もう少し手前にあるのかもしれない。


そこに木が在る。


床に木がある。

柱に木がある。

梁に木がある。

家具に木がある。

毎日見て、毎日触れている。


でも、いちいち「これは木だ」とは考えない。

それくらい、普通に在る。

その「普通」は、人の中にひとつの基準をつくるのではないだろうか。

工業製品だけに囲まれていれば、それが普通になる。

均一な色や、変わらない表情が、自分の基準になる。

反対に、木がいつもそこにあれば、

節があることも、色が違うことも、傷がつくことも、

年月とともに変わることも、普通になる。


そして、ある日ふと気づく。

「この柱の木は、どこから来たんだろう。」

「どうやって、この一本の柱になったんだろう。」

そこから山を見る人もいるかもしれない。

森を考える人もいるかもしれない。

家具や木工に興味を持つ人もいるだろう。

何も考えず、ただ木の床が好きだという人もいる。


それでいいと思う。


千差万別でいい。

最初から答えを決める必要はない。

でも、最初から「在る」のと、最初から「ない」のとでは、たぶん違う。


無意識の中にあったものが、ある日「気づき」に変わる。

そのときの衝動は、案外大きい。


木育とは、木を意識させることより先に、

木が普通に在る環境をつくることなのかもしれない。


だからなのかもしれない。


私は、木を使い、 木を表にし、 木を愛でる。



答えを探す前に、本質を探そう。


by GIGI

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