住まいの美しさとは

私は、美しいものをつくりたいと思っている。
建築を仕事にしてきて、それは今も変わらない。ただ、「では、美しい住宅とはどんな家ですか」と聞かれると、途端に答えるのが難しくなる。
整った外観、心地よいインテリア、選び抜かれた素材や家具。もちろん、そこにも美しさはある。
けれど、日々の暮らしの中でふと感じる美しさは、もう少し静かなところにあるように思う。
朝、壁や床に光が差し込む。窓の向こうで木々が揺れる。雨が軒先を伝う。木の色が年月とともに少しずつ変わっていく。季節が変わり、それまで気づかなかったところに光が届く。
誰かから「ここが美しい」と教えられたわけでもないのに、ふと足を止めたり、しばらく眺めていたくなったりする。
自然を見ていると、そのことをよく考える。
海や山は、「これが美しさだ」と私たちに教えているわけではない。
春には春の姿があり、冬には冬の姿がある。穏やかな日もあれば、ときには人を寄せつけないほど厳しい表情を見せる。それでも人は海を見に行き、山へ向かい、桜を待ち、紅葉を見に出かける。
同じ景色を見ても、感じることは人によって違う。同じ自分でも、若い頃に見た景色と、今見る景色では感じ方が違うことがある。
自然は何も説明してくれない。それでも、そこには何かを感じ取る余地がいつも残されている。
そう考えると、美しさとは、ものの中にあらかじめ用意された答えではなく、人がその対象との関係の中で見つけていくものなのかもしれない。
住宅にも、同じようなところがあると思う。

家が完成した瞬間に見える美しさもある。けれど、暮らしが始まってから見つかる美しさもある。
朝だけ光が入る場所。いつの間にか家族が座るようになった窓辺。何年も使ううちに艶を増していく床。雨の日になると妙に落ち着く場所。庭の木が育ったことで、初めて生まれる景色。
設計しているときには想像していたものもあれば、暮らしの時間がつくり出してくれるものもある。
写真の「辰野の家」も、私が惹かれるのは建築の形そのものだけではない。
窓の外の緑、室内に差し込む光、床に落ちる影、木の天井。その一つひとつが別々に存在しているのではなく、ある時間に重なり合って、一つの景色になっている。
設計者がすべてをつくった、というのは少し違う気がする。
建築としてできるのは、窓をどこに置くか、軒をどうつくるか、素材をどう選ぶか、光をどう受け止めるか、外との距離をどう整えるか、といったところまで。
そこへ季節が入り、時間が流れ、人が暮らす。
その関係の中で、設計したときにはなかった美しさが現れることもある。
だから私は、住宅の美しさを一つの完成した答えとしてつくるというより、暮らしの中で美しさを見つけられる条件を整えておきたいと思っている。
光の入り方。窓と壁の割合。素材の手触りや、その変化。外とのつながり。人の身体との距離。そして、何も置かれていない余白。
どれも数値だけでは「美しい」と説明できない。
住宅の設計では、面積、高さ、性能、構造、コストなど、多くの数字を扱う。それらは家を成立させるために欠かせない。
その一方で、数字の外側にも、暮らしの質を左右するものが確かにある。
それをどこまで設計できるのか、私にも明確な答えはない。
だからこそ、ほんのわずかでも意識していたいと思う。
朝の光が少しきれいだった。今日は庭がいつもよりよく見える。なぜか、この場所にいると落ち着く。
そんな小さな発見が、毎日の暮らしの中に少しずつ積み重なっていく。
私は「美しい家をつくりたい」と思っている。
でも最近、その意味は少し変わってきたのかもしれない。
暮らしの中で、その人自身が美しさを見つけていける家をつくりたい。
そんなことを考えている。
答えを探す前に、本質を探そう。
by GIGI



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