移住は、私の物差しを増やした。
- GIGI_mtk

- 8月2日
- 読了時間: 4分
海を渡って気づいた、立つ場所と暮らしの見え方
50歳のとき、私はニュージーランドへ移住した。
それまで続けてきた設計事務所を閉じ、
新しい場所で、新しいことを始めようと思って海を渡った。
そこで始めたことの一つが、海釣りだった。
幼い頃、川のほとりで糸を垂らしたことはあったが、
朝釣りや夜釣りに出かけるほど夢中になったのは、
ニュージーランドへ行ってからだ。
気が向けば、竿を持って海へ行く。
釣り糸を垂らしている時間は、
私にとって考える時間でもあった。
これからの仕事のこと。
自分は何をしたいのか。
この先を、どう生きていくのか。
魚がかかるまでは、いろいろなことを考えられた。
魚がかかった瞬間は、それどころではなくなるのだけれど。笑
釣りに出かける道すがら、私はニュージーランドの自然をよく見ていた。
木の形。
葉の色。
道端に咲く花。
雑草の種類。
そして、空の青さ。
ニュージーランドには固有の植物が多く、
それらが大切に保たれているように見えた。
日本の里山や田園には、さまざまな植物が入り交じっている。
遠くから眺めれば美しい風景も、
近づいて見ると、草も木も実に多彩で、どこか雑然としている。
日本の自然には、「ごちゃごちゃ」とした豊かさがある。
ただ、それを雑然としていると感じるのは、
私が幼い頃に見た昭和の風景を覚えているからかもしれない。
昔は、こうだった。
日本の田園風景は、
こういうものだった。
そんな記憶を、無意識に重ねながら見ている。
ニュージーランドの昔の風景を、私は知らない。
目の前にあるものを、そのまま受け取っていたからこそ、
余計な物差しを持たずに見ることができたのだと思う。
ニュージーランドの自然を見ながら、
私は日本の自然だけでなく、
日本を見る自分の目にも気づいた。
日本の自然は、色が濃い。
緑、茶、赤、黄。
鮮やかでありながら、
少し灰色を含んだような、
複雑な色が多い。
「日本の色」と名付けられた色見本帳を開いても、
その多彩さと奥行きに驚かされる。
一方、ニュージーランドの空は、日本よりも深い青に見えた。
日本の空は、それに比べると少し白を含んだ青に見える。
けれど、違うのは色そのものだけではない。
光が違う。
空気が違う。
湿度が違う。
見る時間も、
立っている場所も違う。
ニュージーランドの日中の光は強く、サングラスが欠かせなかった。
同じ色や同じ素材でも、どのような光を受けるかによって、
その見え方は変わる。
建築の方角も逆になる。
日本では、日当たりを考えるとき、まず南を意識する。
南半球のニュージーランドでは、太陽のある側は北になる。
日本で当然だと思っていた「南向きがよい」という感覚も、
海を渡れば反対を向く。
立つ場所が変われば、正しさの向きも変わる。
そのことは、私の中に新しい物差しを増やした。
風景を見る物差し。 光や色を捉える物差し。
そして、人の暮らしを考える物差し。
人は十人十色であり、暮らし方は千差万別だ。
ある人にとって心地よいことが、
別の人にも同じように心地よいとは限らない。
正解と呼ばれるものがあるとすれば、
その物差しを持っているのは誰なのだろう。
設計者なのか。 世の中なのか。
それとも、そこに暮らす人なのか。
暮らしは、「1+1=2」と答えの出る算数ではない。
条件を整理し、正しい式に当てはめれば、
誰にとっても同じ解答が導かれるものでもない。
大切なのは、あらかじめ用意された「2」を探すことではなく、
1と1を前にして、そこから何が生まれるのかを一緒に考えることだと思う。
私が考える建築士は、答えを手渡す先生というより、
答えへ向かうプロセスを共に歩む存在である。
住まい手の暮らしが主旋律なら、それを支える伴奏者。
住まい手の思い、敷地、光、風景、予算、素材、技術という異なる音を聴き、
一つの住まいへまとめていく指揮者でもある。
ただし、指揮者が自分の曲を演奏させるのではない。
住まい手の中にある、まだ言葉になっていない旋律を見つけ、
その人らしい一曲に整えていく。
建築士の深みは、答えを早く出すことだけで決まるものではない。
立ち位置を変えながら考え、どれだけ多様な提案ができるか。
その人の物差しを知り、その人の場所から景色を見られるか。
ニュージーランドへの移住で変わったのは、
住む場所だけではなかった。
世界を見る位置が変わり、
自分が当たり前だと思っていたものを、
別の角度から見られるようになった。
移住は、私の物差しを増やした。
その物差しは今も、
私が人の暮らしと住まいを考えるときの、
静かな支えになっている。
答えを探す前に、本質を探そう。
by GIGI



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